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2014年6月14日土曜日

ユング 自我と無意識

自我と無意識


自我肥大

p42
一方での思い上がりと他方での小心は、ともに限度が守られにくいという不確かさを共有している。

p42
不確かさが感情の高ぶった人を駆り立てて、自分にもあまり確実とはおもえない彼の真理をを吹聴させ、その新たな信奉者を獲得させるありさまを如実に見て取ることも出来る。そうした追従者があってはじめて、彼の確信の価値と信頼性が自分自身に保証されるのである。

p43
彼は引き下がれば引き下がるほど、隠れれば隠れるほど理解と承認にたいする密かな欲求が、彼の中で鬱蒼と成長してくる。彼は、自らの劣等感情を口にするにもかかわらず、根本のところではそんなことは信じていない。自らの持つ、認められていない価値にたいする、反抗的な確信が内側から彼に迫ってくる。そこで彼は、ごくわずかな否認にたいしても敏感になり、誤解され、正当な欲求を踏みにじられたという顔を常にして見せるのだ。
その結果彼は、病的な自負と傲岸な不満を抱くようになるが、それこそは彼にとって実はもっとも抱きたくないものであり、一方彼の周囲は、そのためにますます大きな被害を被る羽目になる。


p56
威信の形成には、一方に威信を持ちたいとおもっている人がおり、他方に威信を与えたいという民衆がいなくてはならない。こうした事情であるから一人の人間が権力意図から威信を作るという説明はあたらないだろう。

p60
彼は社会によって担われており、その分だけその個人的な責任を免除されているからだ。巨大な社会はたとえ、卓越した人間ばかりで構成されているとしても、道徳性と知性においては愚鈍で乱暴な一頭の巨獣に等しい。

社会が個々の成員の内に、集合的な資質を強調すると、それとともに社会は、あらゆる平凡さを賞揚し、安直かつ無責任にただもう植物的に生きるのにおあつらえ向きの物ばかりを賞賛することになる。略
この過程は学校で始まれ、大学にまで継続し、国家が関るところすべてを支配している。

p61
彼がその環境に正常に「順応して」いさえすれば、その社会のいかなる極悪非道も、彼の心をかき乱したりはしないだろう。
(戦争における、兵士と国家の関系、心理学実験電気ショック)

宮沢賢治 雨にも負けずについての新聞論説

雨にも風にも負ける事が多かった賢治の自戒の念、なりたくてもなれなかった強い人間へのせつない夢、オロオロ歩くデクノボーへの哀しい肯定が、この詩なのだ。

つらさ、悲しさに寄り添い、非力な自分を認め、それでも歩こうとする自分の心の底からの溢れだす言葉を紡ぐ。そこに詩が生まれ歌は輝く。

_2011/12/05(Mon) 01:33:49_

10年ほど前に見た「こどものそら」という映画をみたくなり、DVDを購入。
監督さんのプロダクションに電話をしたら、監督さん本人が電話に出た。

おまけに本もつけてもらえた。

本当に子供たちが良い顔をしている、指導員も良い顔をしている。
こんな場を創ることが出来たら。
自分が出来ていないことに落ち込み、それが行動をかえって妨げている。
するべきことを見据えて挑戦していくこと。

吉田さんや監督の小林さんの生きる姿そのものが美しい。

美しい生き方をしよう。

キルケゴールの死にいたる病を読み進めている。自分にもあてはまる。
ユングにも通じるものがある。
ニーチェもキルケゴールを読んだそうだが、自己の肥大を客観的に見ることはできなかったのだろうか。
一人の天才だけでなく、凡才のつくりだす、結び付きの輪もあなどれない。