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2012年2月14日火曜日

学校で利用できる子どもの衝動

学校と社会

 学校で利用できる子どもの衝動   

  社会的本能 言語本能は子どもの社会的表現のもっとも単純な形式である。
   制作の本能 構成的衝動、 伝統的な教育においてはすでにできあがっている教材(書物、実物教授、教師の話など)を子どもに提示することに多くの力がいれられてきたのであって、子どものほとんどもっぱらこのすでに出来上がっている教材について暗唱する一途な責任を負わされているだけなので、反省的注意を発達させるための機会や動機はただ偶然的に存在するのみであったといっても過言ではないであろう。
根本的必要にたいしては−すなわち、子どもが問題を自分自身のものとして認識し、かくしてその解答を発見するために、自ら注意を行使するにいたるように子どもたちを導くことにはほとんど考慮が払われていなかった。


 

2012年2月8日水曜日

人間とロボット

人間とロボット
ベルタランフィー
p11
私たちの社会は、病めるもの、堕落したもの、水準以下の者のことにすっかり首ったけのありさまである。総人口の中に知恵の遅れた子は3パーセントいるが、彼らが社会の関心の中心を占領している。正常である97パーセントにあてがわれている教師は人数もおよそ人手不足、安給料で、しかも大学進学の年頃の若者が自国語も満足に使いこなせないような制度のもとで働いている。
関連 この子らを世の光に

p13
刺激=反応図式は、行動のうちで自律的活動の現れである大きな一部分、つまり遊戯、探検行動、あらゆる型の想像性などをきりすてている。
p21
現代の大発見ー核兵器とならんで−こそこのものである。すなわち歯みがき粉およびビートルズから大統領、核戦争、自滅まで何でも「買いもとめる」自動人形に人間をつくりあげてしまう、この力である。

p41
すでにのべたように、生物学的および適応的価値がもっとも高いかどうかだけからいえば、シンボル的活動と文化的活動はそういえるかどうか疑わしい。さらに自殺、戦争そのほかでは、生物学的価値がシンボル的価値の犠牲になっている。

2012年2月5日日曜日

学歴社会と立身出世

学歴の社会史
教育と日本の近代

天野郁夫 新潮選書 新潮社  1100円

p270
明治維新は政治的な革命であっただけでなく、社会革命であり、文化革命でもあった。
その革命の一環としてつくられた教育と学歴の制度は、少なくとも発足の当時には
、若者たちの夢と希望を膨らませ、社会的な上昇の機会を開き、提供してくれるものであった。学校は財産とも家柄とも関係ない、自分だけの能力だけがものをいう「立身出世」のもっとも重要な手段だったのである。しかし、「革命」から三十年たち四十年たつうちに、教育と学歴は上昇移動の機会を開放するよりも、統制する役割を強めはじめた。


2012年1月31日火曜日

教える者の資格

授業科学研究9、10
p223
私たちの力不足で子どもたちに十分な学力をつけさせることはできなくても、生きていく意欲や自信を喪失させる様なことがあってはならない。そのときは、自分の力不足であったなどと言い逃れることはできないと思う。
教師仲間から孤立してしまうことがあっても、この一点は譲ることはできない。おのれの教育活動を通して子どもたちの意欲や自信をそこなうようなことがあれば、自分は教師でなくなってしまうだろう。

2012年1月30日月曜日

教育の目的

p332

ポパーは生徒に対する価値教育の根幹をなすべきものは(生徒を)「われわれから独立させ、自分自身で選択できるようにするために、若者に、彼らがもっとも緊急に必要としているものを与えよ」ということであると考える。彼にとっては、「人格の完全な発展」といった標語は、典型的にロマンティックな標語であっても、実のところは無意味な流行現象にすぎない。


2012年1月23日月曜日

脱学校の社会

_脱学校の社会_
p49
すべての人に教育を与えるというのは、すべての人による教育をも意味するということである。人々を教育を専門とする制度に強制的に収容することではなく、すべての人を教育的に活動させることのみが国民文化の形成に通じることができる。

学習する能力だけでなく他人に教える能力をも行使するという各人に平等な権利は、現在では免状をもった教師に占有されている。


P2
生徒に教育内容を効果的に「注入」するための新しい学校形態を模索している現在の傾向は、むしろその逆のものを模索するように逆転させられなければならない。つまり個々人にとって人生の各瞬間を、学習し、知識・技能・経験を分かち合い、世話し合う瞬間に変える可能性を高めるような教育の「ネットワーク」をこそ求めるべきなのである。

p13
多くの生徒たち、特に貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直観的に見抜いている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。過程と目的の区別があいまいになると、新しい論理がとられる。手をかければかけるほど、よい結果が得られるとか、段階的に増やしていけばいつか成功するといった論理である。
p13-14
健康、学習、威厳、独立、創造といった価値は、これらの実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じように誤解されてしまう。

関連 埴谷雄高


教育のネットワーク

ネットを通じて学びたい人同士が集まって学習を行う
時間と場所の調整
学校の勉強を超えて
自分で関心をもったことについて
調査結果をネット上で発表

一方的に報酬を得ることはない
報酬によって関係が固定化する
組織化をどう防ぐか
継続性をなくす
年齢、職業などに関係なく参加できる
会合のためのイニシアティブを、相手を求めている人々自身にまかせる

地域と興味両方から検索できる

自主性にまつわる問題

望ましい個性
より効率的な支配
内面化

生涯学習

生涯学習と地域社会
10章 学校を通しての地域社会の再生

1、生涯学習の歴史
生涯学習の理念は1965年のユネスコの提案
日本で本格化するのは1981年の中央教育審議会答申「生涯教育について」以降

生涯学習とは
自発的意志に基づき、必要に応じて自己に適した手段・方法を自ら選んで、生涯を通じて学ぶこと
自発性
即応性
選択性
生涯を通じて

その背景
1984の臨時教育審議会第1次答申
生活水準の向上
高学歴可
価値観の高度化、多様化
情報化国際化の流れの中で生涯を通じての学習の必要性
多様な生き方が尊重される社会

地域社会が生涯学習の場になるということはどういうことなのか。
筆者の体験をもとに生涯学習とのかかわりで地域社会のあり方を考えてみたい。

ささやかな学習社会作り
 筆者が発足させた「子育て・教育フォーラム」の紹介
  親同士が悩みや不安を話し合う中で解決の糸口を探る自主的勉強会


子どもの社会問題についての非難がいままでは学校に集中していたが、家庭のあり方が問われるようになっている。
広田照幸は、現在の親たちは完璧な母、完璧な両親を目指してけなげな努力をしていると分析している。

40年ぐらい前までは近所の母親たちが語り合う土壌があったので現在ほど悩まないですんだ。
情報しかない現在では、「公園デビュー」が今風のささえあいの場となっているのだろう。

子育ての継承
参加者の希望 系統立てたプログラム
報告と討論 報告と司会者は持ち回り
必要経費はみんなで分担

30回以上行った勉強会のテーマは
「親の気持ちと子育て」「子どもを伸ばすほめ方しかり方」など
2年目からは「子育てにおける父親の役割」「私が考えるしつけと家庭教育」というテーマでシンポジウムをおこなった。

この「子育て・教育フォーラム」は自主的なボランティアによって運営され、保育もボランティアグループから派遣されている。

3年間を振り返ると多くの知恵を全体の共有財産にすることができた。子どもをとりまく環境が悪化する中で、この会の果たす役割はますます大きくなっている。

この活動は当初半官半民の形態で始められた。
市からは自主性も尊重され、費用面、施設面などでのサポートがあったが、2年目からは市の方針転換がありそのような関係に陰りが生じる。
行政には社会から本当に求められることを受け止め、それに応えてくれることを望みたい。

しかし行政に関係なく、母親の必要性から生じたこの会はこれからも続いていくだろう。
1999年に文部省が出した文章では、地域で子どもを育てる体制作りなど、家庭教育を支える取り組みが既になされていることを強調している。

市の当初の姿勢はこの文章に添うもので、行政と地域は力を合わせ子どもの環境作りに勤めていくべきである。
そのときの行政の姿勢として、地域の自主的な活動をみとめ育てていく懐の広さが必要だろう。

2 放送大学
放送大学はまさに生涯学習の場である。
筆者は放送大学の面接授業を担当して4年になる。そのなかで学生たちが年齢に関係なく学ぶ喜び、誇り、価値をかみしめている姿に接してきた。
1999年の面接授業で筆者は生涯学習審議会答申を取り上げた。
答申では生涯学習のあるべき姿として

誰もが社会の中で生き生きと自分を生かすことができるようにするために
・いつでもどこでも学ぶことができる、
・その成果を生かすことができる
・自分が本当に望むことを選択できる。
・やり直しのきくゆとりのあるシステム

この答申の内容は学生たちにとって激しく心を揺さぶるものであったようだ。

生涯学習審議会答申では
あらゆる人が学び直して再チャレンジできるように
この答申は多くの人に夢や希望を持たせるものではある。

放送大学には学歴社会の中で疎外され過去に鬱積した思いを持っている
学生が多い。
答申では資格を活用して社会参加が進めば自己実現だけでなくあらたな 学習意欲を生み出すとあり

この答申を実現するには多くのハードルがある。
学習機会の拡充とその結果をを生かせる社会体制を整えるのことが求められる。 また放送大学院の実現への取り組みも期待される。

3、自治会活動の意義は何か
地域をどのように作り上げていくかは時代を越えた大きな課題である。
筆者が地区長をしている自治会では住民の寄付によって自治会館が完成した。
その取り組みの中で学ぶことも多かった。
地区長として意義や夢を話し、寄付集めをしてきたが期待したよりも多くの人
耳を傾け、寄付金を集めることができた。
自治会館は地域の財産としてさまざまに役にたっていくだろう。
東京都区部という都会でも思ったよりも地域社会が残っているかもしれない。
相互扶助の輪はどの地域でも作れるのだと実感できた。

筆者は30年以上前に下水道を自費で作る自治体活動にかかわったことがある。
下水道設立実行委員会は一人一人に必要性を訴え、勉強を重ねつつ5年かけて事業は完成した。
1970年代の生活の諸問題解決のための多様な住民運動の流れに添って
いたと思われる
こうした住民運動は個別課題の解決から「地域づくり」へと発展してきた。
下水道の取り組みは地域住民に大きな自信とほこりを産み、下水道設立組合が役割を終えた後も、地域の協力の輪は消えなかった。
校区の小学校でも一目置かれ教育についても期せずして、社会的連帯感や権利意識が生まれた。
社会参加型、問題解決型の学習社会とはつまりこういうことであろう。



補章

生涯教育と資格試験

2000年2月日弁連が「法学検定試験」という新しい資格がうまれた。
日本では毎日のように新しい資格が生まれている。
多くの人が資格のため野本を買い、資格試験予備校に通っている。
日本全体が資格社会化している。

生涯学習とのかかわり
生涯学習への動機となる。
生涯学習の成果を顕在化させる
機能を持つ

1、資格の分類
資格を明確に定義することは難しい
辞書の定義からは運転免許など資格がないと一定の行為をすることが禁じられたものというイメージが浮かび上がる。
またもう一つ、実用英語検定や簿記検定など、行為をするために必ずしも必要では
ないという資格もある。
明確な定義はないが実施機関、国の関与を指標に分類すると
以下のようにわけられる
1,国家資格
法律や命令に基づき設置
国またはその指定機関が実施
運転免許、司法試験など
2,公的資格(広義)
財団や社団などの公益法人が実施、認定する
実用英語検定、日本語教育能力検定などの
官公庁の認定している資格を狭義の公的資格
証券アナリストやソムリエなど
公益法人が独自に行っているものを準公的資格と細分することもある。

3,民間資格
民間の団体が実施
ファイナンシャルプランナー、一太郎検定など。

2、資格の効用
生涯学習の成果を確認する手段として資格、資格試験が注目を集めている。
生涯学習審議会の答申では、学習の成果を資格に結びつけることで、社会も
その学習成果を活用しやすくなる。また学習者も成果を社会的に確認でき
さまざまな活動に参加する中で、新たな課題をみつけ学習する刺激になると指摘している。
実際、資格取得への意欲は高く
筆者の調査によれば女子大学生の3/4が在学中に資格を取得、または検討している。足立区の世論調査でも職業上の技能、知識との関係で生涯学習に取り組んでいる
と答えたものは、28.1%と同様の結果が出ている。
しかし、実際に学習に取り組む層は、男性が多く年代も20代から40代に集中している。このことから就職後は女性の資格取得への意欲が低下していることがうかがえる。
この原因として女性が生涯学習として職業と関係ないものを選んでいる、または職業生活の中でその必要性を感じていないという2つの可能性が考えられる。
後者であれば性別役割分業的な構造の残存を示しているといえる。
3、教育訓練給付金

優良企業が次々に倒産し、リストラや、年棒制への移行など終身雇用制が崩壊つつある。その中で転職も買手市場一色になり、少しでも有利な条件を求めて資格取得を目指す層が増えている。その不況の中、資格産業は盛んになっている。
労働省は従業員の資格取得を補助する教育訓練給付制度をスタートさせた。
労働者による能力開発、雇用の安定、再就職の促進をはかることを目的
としており、雇用の流動化を前提につくられたことがわかる。
教育訓練恐怖制度の概要
雇用保険の一般被保険者(元をふくむ)
受講開始までに1つの事業主に5年以上つとめた。
一般被保険者資格を喪失してから1年以内

この条件を満たすものが指定の教育訓練を修了した場合
費用の80%をハローワークが支給する

情報処理、簿記、など仕事に役立つ講座が2000年9月現在1万2千指定されている。

4、資格社会という幻想
不況の嵐が吹き荒れる中、資格は不況に強いという言葉は魅力的な響きを持っている。
しかしそこに悪徳商法という大きな落とし穴がある。
悪徳商法は教育訓練給付金が利用できるなどの錯覚をおこさせ、法外な値段のテキストを売りつける。
最近は女子大学生に対して「就職に有利」と勧誘する傾向があり、ひっかかってしまう学生も多い。生涯学習でもクーリングオフ制度など消費者教育の充実が求められる。

また、資格試験の合格を最終ゴールにしていると思われるような人もいるが
資格を持っているということとその資格を使いこなすことはまったく別次元の問題である。資格取得はそれが活用されて初めて意味を持つのである。


資格競争での新たな敗者をうみだす。

無力感の学習


地域の問題を解決するための学習

孤独な群衆 教育

p5
「どのような社会でも、それがうまく機能するためには、その成員が、その社会、あるいはその社会の中での特定の階層の一員としてなすべき行為をしたくなるような性格を身につけていなければならない。彼らは客観的に見て、彼らに必要なことを、欲しなければならぬ。すなわち、外的な力は、内的な強迫に転化され、また、人間の特殊なエネルギーによって、それは性格の特性となるのである。」
E.フロム
"Individual and Social Orgins of Neurosis," American Sociological Rociological Review,IX(1944),Culture(NewYork,Alfred A. konopf,1948)に再録.

p13
一次的集団−すなわち、子どもたちを社会化し、かつその初期経験によって大人たちをも規制する諸集団−の規制がゆるむにしたがって、より開かれた社会に適合するような、新しい心理的メカニズムが「発明」される。
関連 社会化、学校が社会のあり方を規定する
p40
そこでは他人から認められるということが、その内容とは一切かかわりなしに、ほとんど唯一絶対な善と同義になってくる。すなわち自分が認められたということは、自分がいいことをしたということに他ならないのだ。このようなわけで、他人指向段階の社会ではあらゆる権力 −ある種の権力というだけではない− は人間を認めてくれる、現実のあるいは想像上の集団の手中に収められている。そして、子供は、自分の性格とか、自分の財産とか、自分が受け継いだ家名とか、才能とか、あるいは自分がした仕事とかは、それ自身として評価されるものではなくて、それらが他人とのかかわり合いにおいてどのような効果をもったかで計られるのだ。ということを両親のかれらに対する反応から学びとるのである。
関連 評価 ニーチェ オウム


2012年1月22日日曜日

集団

刑務所、軍隊、会社、学校などの集団が個人に求めること

個人の所有物を持たせない
自由を制限する
一人一人の外見上の差をなくす
属性を与えない
ある一定の基準によって評価する
行動の様式、儀式がある
少数の人によって行動が支配される
構成員同士の交流が制限される
グループを作ることが制限される
合理性よりも規則が重視される

子どもとコンピューターの共存

コンピュータのなにを教えるのか
      
コンピュータは子供にとってよいものなのか悪いものなのか

心理学者の市川伸一氏は子供がコンピュータと接した時、子供が見せる反応は
次の3っつの層に分かれるといっています。
「一つの層は全くの無関心である。第二の層は、できあいのソフトゲームにふける子どもたちである。そして第三の層は、自ら言語を学びプログラムを作ろうとする子どもたちである。」

そしてそれらの子どもたちが抱えやすい問題として次の点をあげています。

「無関心層」 コンピュータができないことに劣等感を抱き、消極的な子どもになってしまう。
「ゲーム層」は、与えられた遊びを享受するだけという受動的な態度になりやすい。
対人的な遊びが少なくなるので社会性が育ちにくい。
「プログラム層」上と同じように社会性の欠如、過度の支配欲求、完全にコントロールできる対象にしか魅力を感じなくなってしまう。

子供だけでなく大人にも当てはまりそうですが


無関心層はパソコンが社会のいろいろな場面に普及してくるのにつれて、パソコンが使えないことに劣等感を抱く。そして、パソコンに対して反発や過度の期待を持ちよけいパソコンから遠ざかる。
ゲーム層は作られた世界の中で満足してしまいそこから発展していかない。
プログラム層はパソコンの中に自分の世界を作ることに没頭してしまい、外の社会
と自分の関係づくりから逃げてしまう。



それではどうするべきか
パソコンの特性としてはよくインタラクティブ(双方向性)ということがいわれます。

生き物は環境への働きかけとそれに対する応答によって内的世界を作っていくので、パソコンもまた一つの世界といえます。
パソコン少年の自閉性
パソコンの世界を外に向かって開かせることが

パソコンだけで作るのではなく
街や自然の中にあるいろいろな音、景色などを作品の中に取り込む

グループで作る、作品を発表する
一緒に作る仲間、作った作品を見せる人などパソコンで何かを作る過程で人との関係を作っていく。


パソコンにしかできないこと
人から与えられたことをやるだけでなく
自分のやりたいことはなになのか

パソコンを持っていて一通り操作はできるが、なにに使っていいのか分からない
生活の中にパソコンを取り込んでいくセンスをみがく
パソコンに使われるるのではなく

あらかじめ遊び方が決められているおもちゃに囲まれている最近の子どもたちにとって
自分の工夫によって

情報の収集
コミュニケーション
自己表現

コンピューターでどんなことができるのか
それがどんな役に立つのか



子どもとコンピューターの共存

コンピュータの道具としての特性を知り、その上でどう使っていくのか
コンピューターを神格化することなくどんな問題があるのか理解する
明確な目標をもたせる

目的ではなく手段である

現在行われている学校などで行われているコンピュータ教育は次の二つを
主な目的としています。
一つはCAIとよばれる獲得させたい知識なり技能なりをコンピュータで効率よく教えるというもので理科、社会などの教科をコンピューターで教えるといったことがこれに相当します

二つ目はコンピュータを操作する技術を教える。


しかし私はコンピュータはもっと子供の発育にとって大きな可能性を持っていると
かんがえます。

パソコンを操作するということは子供にとってそう難しいことではありません。
興味を持ちさえすれば教えなくてもすぐに覚えてしまいます。


すべてをコンピューターの中でやろうとしない
かえって効率が悪かったり、視野が狭くなり、作るものをコンピュータに合わせてしまう。

積極的にコンピュータに関わること
ここでいう積極的とは一日中パソコンに向かってゲームをすることでも、いろんな面白そうなソフトを買い集めて飽きたら、また別のを買うといったことを繰り返すことでもありません。

自分が本当にやりたいことをソフトが用意した機能、あらかじめ想定された使い方をとびこえて創意工夫によって実現していく。

結局パソコンでなにができたのか

何でもできるが何にもできない

コンピュータの害を軽減させるための対策
 画面を集中して見続けるため視力の低下
あまり長時間画面を身続けないような工夫
・紙に書く操作を取り入れる
・近くの人と相談するような工夫

過度に大きな音や色使いなどで過度の感覚を刺激するソフトに注意する
十分な運動をさせる、休憩時間をとる
睡眠時間をとらせる
年齢に適した内容を厳選する
ソフトウェアと子どもがどっちが主導権をもっているのかを見る
ソフトを最初に使うときは、子どもの計画を聞きどうしたらよいかという方策について
話し合う

動機づけ
自己効力観を持たせる
子どもが能動的主体になるようにする 本当の選択をできるようにする
 外的な褒美を与えない
 適切な量の努力をしたときに成功をおさめる

親しみやすい課題を通じてコンピュータのおもしろさを知ること
グループごとに教え会ったり共同して作成すること
個人ごとにも自由課題を決めてプログラムを考えさせること。

自分にとってコンピュータとは何か

自由度が高いので遊びと仕事など目的に縛られず使える。
しかし、それでなにができるのか

指導者はなにをするべきか?
→できないところを助けるところから