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2014年7月9日水曜日

メモ あそびと地域について

講演メモ あそびと地域について

遊びマップ紹介
     なぜはじめた
児童館は遊びをするところ
遊びとは
遊びは大切
自然体験が大切
遊びがなくなっている
どんな影響があるか
遊びを地域で展開するには

遊びが社会を作る

あそびにかかわる公的施設
保育園、幼稚園、学童保育、児童館


あそびの社会化

児童館とは

子どもがあそぶところ

では遊びとは何か

遊びを通じて児童の健全な

遊びの定義
エリス 「人間はなぜ遊ぶか」
遊びとは覚醒水準を最適状態に向けて高めようとする欲求によって動機付けられている行動である。

     強制されない
     自発的なもの
     自由なもの
     手段ではない
     それ自体が目的
     結果よりもプロセス
     真剣

遊びを人間の根源とする

ホモ・ルーデンス 遊ぶ人  ヨハン・ホイジンガ

芋ほりのような作業も遊びになるし
保育者が遊びと設定した活動も
子どもにとって強制された活動になってしまう


サンマがない
三間がない
時間・空間・仲間

遊びは本能
本能を発揮させるには
解発刺激が必要





望むものを全て与える

試す
面白い
もっとやってみる

選ぶ
面白い


時代の変化

作るから選ぶ





遊びの変質    
     子どもの間で受け継がれてきた子どもによる文化
          絶滅しつつある
     大人によって作られた子どものための文化+大人文化の子供化
          境がなくなってきている
          あたりまえ
    
児童館
健全な遊びを与え、その健康を増進し、または情操を豊かにする




あそびとは
自主性・社会性・創造性を身につける自立的な社会教育プログラム


そこで

頭の良くなる遊び、社会性の身に付くあそびを推進しましょう

ところが

遊びの矛盾
     面白さに裏づけられていなくてはいけない
     

面白がらせることを追求することで、受動的にさせてしまう



     目的を持たせることで


國分
文化産業に「好きなこと」を与えてもらっている
産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。

暇の中で退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る

遊びが世代をつくる


学校については世代が離れていても共通の話題で話せる

学校は大きく変わっていない




団塊の世代
バブル世代
新人類
1961年から1970年生まれ
管理教育、不良文化、金八先生
受験戦争、インベーダーゲーム、流行追求、サブカルチャー、まじめ=ださい
年功序列型
従順、無気力、

     中学受験

マニュアル人間
引きこもり

ガンダム
     その世代のアニメーションがその後の基本的な考え方に影響を与える。

移り変わりの激しいメディアを通じたあそび
世代が変わると話が通じない


言葉を必要としない遊び → コミュニケーション能力不足 → コミュニケーション能力を必要としない社会 → コンビニ、マニュアル化されたサービス産業

遊び環境や文化のあり方がその後の世代をつくっている。

団塊ジュニア


レイチェル・カーソン

センスオブワンダー



宮沢賢治
 虔十公園林
今で言えば知的障害のある人でした。いろいろ周囲の人から馬鹿にされたりからかわれたりしていましたが、ある時なにを思ってか野原に杉の苗を植えたところ、後年すばらしい杉林となって、町のみんなの心のよりどころになった。

やってみたくなる刺激と
やりたいことを追求する時間と空間と仲間

大人にできること

田舎のいとこ
     環境があっても子どもは遊ばない

生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在

梁塵秘抄(りょうじんひしょう)は、平安時代末期に編まれた歌謡集
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。


子どもの最善の利益を保障する地域福祉活動の拠点施設として、福祉的機能を発揮するよう求められている

ラッセル
幸せ→熱意を持てる活動

本物の熱意、つまり、実は忘却を求めているたぐいではない熱意 
不幸への憧れ


能力が伸びる時期には、その能力を伸ばすことが遊びになる

はしれるようになると走り回る
考える力がつくときには、考えるあそびをする

仮説

あそびは自発的自己能力開発本能である

例)
ライオンや猫の狩りごっこ

生長を遅らせることで、環境への適応の多様性を得ることができる
好奇心に満ち、探索行動が長続きする
ネオテニー

学校化によって
多くの能力が指導によって獲得されるようになってきている
能力は身についても自発性、創造性は失われる


一人ひとり違った能力や好みをもっている
遊びの中で
自分の好きなこと、得意なことをしる

遊びは自分探し

時期がずれてきている

地域+教育 →公民館
地域+あそび→児童館



子どもには遊ぶ本能があるのだから、ほうっておけばいい
車もあって町はあぶないし
どんな人が住んでいるかも分からない
そんな中に子どもを放り出すことはできない。
今の時代とてもそんなことはできない。

じゃあどうするか?

本田和子(ますこ)著 「児童文化」

子どもは限られた時間を狭い室内で、「もの」に囲まれてすごす。子どもにとって、手足を動かして自らの楽しみを作り出す必要はまったくなくなってしまった。

→子どもだけでなく私たちにとってもあてはまる。
     友人とあつまっても、お金がないとすることがない。

冒険しない


テレビや消費文化財に囲まれている子どもの姿は。。。
「もの」の世界の片隅に子どもが取り込まれていく過程のように思われる。

人間は、手足をつかって「世界」に挑み、手足で「もの」を作ることによって文化を形成してきた。

子どもから「作り出す生活」が失われていくことは重大な問題である。
自然とともに、子ども自らも生命のリズムで行き、手足を存分に使って「世界」や「もの」を作り出していく生活こそ、子ども本来のあり方であろう。そんなあり方を子どもと
ともに作り出し、その生活を共有していくことこそ、子どもの文化を考えるおとなたちが、自らにになわなくてはならない役割なのである。 

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