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2012年1月22日日曜日

菊と刀

p176ー177
「教師の名に対する義理」が指し示すのは、とくにこの種の自己防衛の態度である。実業家もまた実業家としての名に対する義理から、彼の資産が枯渇して危機に瀕しているととか、彼が自分の会社のために立てた計画がうまくゆかなかったということを何びとにもさとられてはならない。また外交官は「義理」にも自分の外交方針の失敗を認めるわけにはいかない。
以上の「義理」の用法すべてに共通し、人間と仕事の極端な同一視が見られる。そしてある人の行為もしくは能力に対する批判は、自動的にその人間そのものへの批判となる。

P177
ところが日本ではこの自己防衛ということが非常に深く根をおろしている。そこで、ある人に面と向かって、彼が職業上の過失をおかしたということをあまりいわないようにすることが一般に行われている礼儀でもあり、また賢明な人のとる態度とされている。

このような神経過敏さは、人と競争してまけた場合に顕著に現れる。


彼は自信を失い、憂鬱になるか、腹を立てるかどちらか、あるいは同時にこの両方の状態におちいる。
p178
アメリカ人にとって特に重要なのは、かように競争は日本においては、われわれ自身の生活機構の中で収めているのと同じ程度の社会的に望ましい効果を収めないということを意識することである。
=略=
彼らは余りにも過敏に、競争を外から自分に加えられる攻撃と感じる。そこで彼らは、彼らが従事している仕事に専念する代わりに、その仕事の注意を自分と攻撃者との関係に向けるのであった。

p179
日本人は従来常に何かしら巧妙な方法を工夫をして、極力直接的競争を避けるようにしてきた。 日本の小学校では競争の機会を、アメリカ人にはとうてい考えられないほど、最小限にとどめている。

p180
それぞれの階級のそん守すべき規則を細かに定めている日本の階級制度全体が直接的競争を最小限にとどめている。

p181
日本人の作法はまた、どんな計画でも、成功が確実になるまでは、できるだけ人に気づかれないようにすることを要求する。

p190
日本人は昔物語の中では復讐を大いに称揚しているけれども、実際に復讐の行われるのは、今日では確かに西欧諸国と同じように、いや、ひょっとすれば西欧諸国よりもなおいっそう、稀になっていることが明らかになる。
このことは、前ほどに名誉ということを気にかけなくなったということを意味しない。むしろそれは、失敗や屈辱に対する反応が、攻撃的ではなくて、防御的な場合がますます多くなってきていることを意味する。
p191
日本人は失敗や誹謗や排斥のために傷つきやすく、したがって余りにも容易に、他人を悩ます代わりに自分自身を悩ましがちである。日本の小説の中には、最近数十年間、教養ある日本人が非常にしばしば我を忘れて怒りを爆発させるかと思うと、、逆に極端な憂鬱におちいったことが、繰り返し描かれている。
このような日本人特有の倦怠は、過度に傷つきやすい国民の病気である。彼らは排斥の恐怖を内攻せしめ、その恐怖に妨げられて手も足もでなくなる。


<メモ>

>ベネディクトとしては時代をこえた日本人の型を探ろうとしたのであるが
>ここに描かれた日本人はもはや時代遅れと感じられる。
>反面、今の日本人にもよく当てはまるところもある

このような急激な変化がおこったということもやはり日本人の特性が
深く関係している

今から見ると日本人の特質として書かれているものが、普遍性を持つものか
その当時の事情によるものなのかがよく分かる。

日本人がベネディクトと同じような立場でアメリカ人のことを書くと面白いかもしれない。

日本人は外国人が日本のことを理解できないことを、誇りとしてきたところがあるので
(日本語、歌舞伎、能)
当たっていても外れていてもこのようなものには反発を感じるのではないか

自分たちが理解できない外国のものをを有りがたがっている。

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