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2012年1月23日月曜日

脱学校の社会

_脱学校の社会_
p49
すべての人に教育を与えるというのは、すべての人による教育をも意味するということである。人々を教育を専門とする制度に強制的に収容することではなく、すべての人を教育的に活動させることのみが国民文化の形成に通じることができる。

学習する能力だけでなく他人に教える能力をも行使するという各人に平等な権利は、現在では免状をもった教師に占有されている。


P2
生徒に教育内容を効果的に「注入」するための新しい学校形態を模索している現在の傾向は、むしろその逆のものを模索するように逆転させられなければならない。つまり個々人にとって人生の各瞬間を、学習し、知識・技能・経験を分かち合い、世話し合う瞬間に変える可能性を高めるような教育の「ネットワーク」をこそ求めるべきなのである。

p13
多くの生徒たち、特に貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直観的に見抜いている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。過程と目的の区別があいまいになると、新しい論理がとられる。手をかければかけるほど、よい結果が得られるとか、段階的に増やしていけばいつか成功するといった論理である。
p13-14
健康、学習、威厳、独立、創造といった価値は、これらの実現に奉仕すると主張する制度の活動とほとんど同じように誤解されてしまう。

関連 埴谷雄高


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