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2012年2月20日月曜日

宣伝について

p259
宣伝はすべて大衆的であるべきである。その知的水準は、宣伝が目指すべきものの中で最下級のものがわかる程度に調整すべきである。

p261
イギリス人やアメリカ人の戦時宣伝は心理的に正しかった。かれらは自国の民族にドイツ人を野蛮人、匈奴だと思わせることによって、個々の兵士に前もって宣伝が、戦争の恐怖に対する準備をし、幻滅をおこさせないように努力していた。
=略=
かれらは自分たちの武器がおそらく -しかもほんとうに- もっとほんとうに恐ろしく効力があるということを考えるいとまもなく、彼ら自身が、敵の側から体験させられた武器の残虐な効力が、すでに先刻承知の野蛮な敵の「匈奴的」残虐の証拠だと漸次考えるに至るからである。

p263
戦争の責任について、ただこの破局の勃発に責任があるのではない、と論ずることは、この観点からすれば根本的に誤りであった。かえって実際には、本当の経過はそうでなかったにしても、事実そうであったように、この責任をすべて敵に負わすことが正しかったであろう。

p265から266
宣伝は短く制限し、これを絶えず繰り返すべきである。この堅忍不屈さが、世の中の多くの場合がそうであるように、ここでも成功に至る第一の、かつもっとも重要な前提である。
=略=
かれら(大衆)はいつも新しいものを欲し、変化を求め、こうしてすべての効果的な政治的大衆獲得の真の仇敵になる。
=略=
変更のたびに、宣伝によってもたらされるべきものの内容を決して変えてはならず、むしろ結局はいつも同じことをいわねばならない。だからスローガンはもちろん種々の方向から説明されねばならないが、しかし考察の最後はすべていつも、新しいスローガン自体に戻らねばならない。




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